私たち川嶋印刷本社工場のある岩手県平泉町では毎年5月1日~5日の期間に「春の藤原まつり」が開催されます。
中でも5月3日の「源義経公東下り行列」はメインのイベントとなっており、毎年沢山の観光客が訪れます。
今回のかわしま通信では「源義経公東下り行列」についてご紹介していきます。
【源義経公東下り行列とは?】
源義経公が兄頼朝に追われ、平泉にたどり着いた際、当時の奥州藤原氏当主、藤原秀衡の出迎えを受けたという情景を再現したものと言われ、
騎馬武者、御所車、侍女ら総勢約100人による平安絵巻そのままの雅やかな行列です。
毎年、秀衡・義経・北の方(義経の正室)など、それぞれの役柄に合った人が選ばれ、
馬や牛車に乗って山伏姿の弁慶ら武者一行・待女たちを従えて、毛越寺から中尊寺まで行列します。
義経役には毎年、人気俳優やタレントが起用されることが多く、会場周辺には多くの女性ファンらが押し寄せます。
【平泉と義経の関係とは?】
「源義経」は、源義朝の九男として生まれました。義朝が平治の乱で平清盛に敗れ、討ち死にした後は京都の鞍馬寺にあずけられてました。
しかし、僧になることを嫌った義経は、16歳で鞍馬寺を脱し、奥州と京都を行き来する豪商人「金売吉次」と出会い、吉次と共に奥州平泉を目指すことになります。当時の平泉は人口10万人を抱え、京に次ぐ繁栄を誇った大都市で、金や馬の生産によって豊かな財力を持ちながら、17万騎(誇張でしょうが)と称される強大な武士団を抱えていました。
奥州藤原氏の3代目当主「藤原秀衡」と出会った義経は、武将のたしなみとした弓馬の道を鍛錬に励むのを日課として、6年の歳月を平泉で過ごしたといわれています。
1180年「後白河法皇」の息子「以仁王」が平家追討を発令。
兄頼朝の挙兵を聞きつけた義経もすぐに出陣し平泉を後にしました。
戦いでは圧倒的な強さを見せ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼしました。
その後、義経は朝廷から官位をもらいましたが、 源氏一門には 序列を乱し混乱が起きないよう、頼朝の承諾がない限り、朝廷の官職に就くことは許されていません。
義経が承諾なしに官位を貰ったことを兄頼朝は気に食わず、義経は追われる身となり、秀衡に助けを求める形で奥州平泉に身を寄せたのです。
東下り行列は義経の帰還を歓迎する情景を表わしたものと言われています。
【源義経公東下り行列の流れ】
午前中に中尊寺を出発した出迎え行列は、昼頃に毛越寺に到着。
毛越寺本堂で「対面の場」が行われ、それから浄土庭園の「大泉が池」に場所を移し、
それぞれに義経公や北の方、秀衡公が乗った2艘の舟を浮かべ、「ねぎらいの場」が再現されます。
その後、馬や牛車に乗って、山伏姿の弁慶ら武者や待女たちを従えた一行が、
毛越寺から中尊寺までの約4kmを約2時間をかけ行列します。
平泉は普段、落ち着いた雰囲気の町ですが、春の藤原まつりでは沢山の観光客が訪れます。
現代でも平安後期の情景が再現できるのは歴史ある町だからこそですね。
馬や牛車に乗った100人近くの行列は圧巻です。みなさんも機会があればぜひいらしてみてください。
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